もう、やめて!っていったのに

ギュダ・キューブ

 猫王子は、朝早く、ジョナサンのお布団の脇に、しっかりとやらかしました。姫様が目撃して「アアコラ!xxxx!!」と絶叫した。もうあわやというところで、御布団は大丈夫でした。いくら頑張っても、あのにおいは消えないし・・・猫さんはトコトコそばを通る時カリカリとじゅうたんを引っ掻くんですがね。アンタそんなことで,なかったことになんかならないよ。なんだか、ぐったりくたびれてしまった。だって、買ったばかりの、まだタグがついたまんまのテイーシャツまで、しっかりやられたもの。
 明日、もう大将に決断してもらおう。たまんねえよ。可愛いんだけどね。これだけはごめんだよ。人間の勝手かもしれないけど。ゴメンネだけど・・・・
 昨日の講演会は、もしかしたら、必要な人に必要なものを与えたのかもしれない。私にはわからないけれど、あの、針を落としても聞こえるほどの静けさは、普通じゃないと、思った。今にして考えればコワーイ。
 その代わりに、私はモウグッタリ。頭の中には、原稿を書いている間にやらなかったことのリスト、片付けたいのだけれど、もうクラクラする。頭が痛くて。眠い。体力を使い切った感じがする。こんな時は、花を沢山かって、ぼんやりと眺めたいな。林の中を歩きたいな。なんて思うのだけれど。冷蔵庫で私を待っている、肉味噌になるはずのひき肉が、気になる。塩豚用のブロック肉も待っている。
 今日の写真は、ギュダ君の課題。ケント紙で作った立体。美しかった。

 昨日、何冊か一緒に本を買った。その中に一冊、キューブラー・ロスの本をえらんだ。この前彼女の死亡記事を読んだ記憶があった。彼女は、2003年に自分は死ぬだろうといっていた。もし、彼女の語っている「死」がそのようなものだったら、私は心が解き放たれるだろう。もうギュダ君の死を苦しまないだろう。寂しがらないだろう。私はいつでも彼に触れているんだと実感できるだろう。死が見知らぬものでなくなったら、どんなに私は安心できるだろう。彼が心配なのではない。彼は自分が一番安心できる、ふるさとに帰ったのだから。神の手の中にいるのだから。問題は私の心にあいた大きな喪失感。まるで生きていく力が、その穴からザアザアコボレテいってしまうように感じている。どんなにモノを買ってみても、おいしいものを食べてみても、この穴は塞がらない。あの子が生きていた時、自分の心の中に、子供がこんなに深く、大きく生きていることに、気がつかなかった。

 昔、一人で生きてゆこうかと思ったとき、泊まっていた教会の、青年達が夜歌っていた歌が、突然テレビから流れてきた。そうだ、あれも暑い夏だった。夏の初めにアルバイトをして旅費を作って、一人で旅に出た。たった一人で沢山歩いた。ノートとペンと、ローザ・ルクセンブルクの本を持って。これから何処へ向かって生きてゆこうかとひたむきに考え続けていた。あの集中力は何処へ行ってしまったんだろう。何も持っていなかった。命一つが自分のもの。そんな時代が私にもあった。失うものが自分)しかないとき、かぎりなく自由だった。
 あの頃の、何もない自分にいつか戻ってゆきたい。ささやかな無駄のない生き方を、取り戻してゆくためには、捨てなければならない沢山の荷物がある。シンプル ライフを生きるために、整理し続けよう。物だけではなく。人間関係も、心の中も。最後に残ったものが、私の生きてきた道と、矛盾しないことを祈りたい。

 猫王子のオペが月曜日と決まった。誰が連れてゆくのでしょうか。私?師匠と姫様もその日はいる。文化祭の代休だから。例えどんな必要があっても、ああ痛いことはイヤだなあ。大将!