歌が歌えてよかったな

おそろいのTシャツで

 午前中は、中学校の広報で二種類の出版物を同時並行で企画した。昔取った杵塚で、パタパタと企画を立てて、段取りと原稿の割り当てをした。今日は、5月にあの子が亡くなってから、初めての出席だったので今まで休んでたわけをはなした。不幸がありましたので、と。不幸なことだったけど、不幸があったというのも変な日本語だな。ともかく、彼の死は、自分の子供が死ぬなんて、考えても見たことの無かった母親達には強烈なパンチだったらしい。珍しくゴタゴタしないで話がまとまってしまった。
 あさってのミッション校の講話もなんだかやっと、見えてきた感じがする。今の親が戸惑ったり、知りたいと思ったりするものが、私には良く判っていないような気がしていたから。今日の企画会議は、私にとっては天の助けだった。
 午後からは、土曜日に87歳で亡くなった方の、御葬式だった。奥さんが親分の仕事関係のボランティアをしておられた関係もあって、私が代理で出席した。半分以上が、教会以外の方で、教会関係者もお年を召された方がほとんど。聖歌隊の席に座らせれた。昔懐かしい、今ではほとんど歌われない聖歌が、リクエストされていた。故人の好きだった歌や、家族の思いのこもった歌が選ばれるから、きっと昔懐かしい歌が選ばれたのだと思う。幸いにして、私は初見で音が取れるので、歌うことができた。皇后様と呼ばれている、恰幅のいい体育系のシスターとほとんど二人で歌った。後で、きれいなソプラノでありがとうといわれたけど、故人の供養になったかもしれないと思って、歌が歌えてよかったなと思った。
 文章が書けること。朗読ができること。絵が描けること。歌が歌えること。みんな親から受け継いだものだ。自分で誇りに思うことではない。誰かのために与えられているものだから、役立ててあたりまえだと思う。聖書にもあるではないか。「ただで与えられたのだから、ただで与えなさい。」でも御葬式で、初めて会った人からほめられて、どぎまぎしてしまって、アホナコトヲ、もごもごとつぶやいた。「いいえそんな。おやかましくて、すみません」小さな声だったから、聞こえてないと思うけど。車のエンジンをかけながらアホだと思った。でもなんていえばよかったんだろうか。
 今日は「あの子」の17歳の誕生日だ。なんにもしないのはさみしいし、なんといってハッピーバースデイをうたうんだろう。あの子はあのままいつまでも16歳なんじゃないのか?死んだ子の年を数えるのは、おろかなことの代表なんだよな。
 今日、中学校に行った。あの子が2年間通って卒業した、あの子がどこかから覗いているような気がした。今は、姫様が一年生に在学している。転勤を繰り返しながら4人の子が、どこかの学年で在学していた。ご縁がある学校です。
 話は変わって、猫王子の実家のプリンセス(彼女は自分のことを本当にこう呼んでいる)にきいてみた。ひとこと「去勢するっきゃないね。今ちょうどシーズンだし。雄猫のオシッコは、どうにもならん。ただし、雄じゃなくなったら、食べるだけが楽しみだからね、食べるよ。そして太るよ。この子の父親はでっかいからね。すごくなると思う」「帰すなんて、言わないでしょうね」あ、あ、あ、あ、あ、あ、、彼女は最初からすべて御見通しだったのさ。可愛さに負けて、手を出したこっちの負けえ!
猫王子覚悟するしかないよ。もはや。我が家の男ドモは、わが身に引き比べてあわれがる。猫王子はこのごろ「メグー」「メエグウー」となく。そのうち啼かなくなるかもしれないから、録音しておいたらどうかね。