スナフキンの誕生日

これは3日目の上弦の月

 この子が生まれたときはとんでもない大雪だった。車を持っていなかったから、とにかくタクシーが来てくれるうちにと大慌てで入院した。なかなか生まれてこなくてかなりの難産で、母乳が出なくなって、大変な思いをした。何しろ粉ミルクが店頭から姿を消してしまった時期だったから。オイルショックの時期と重なり身を絞っても母乳を出さなければ子供を育てることが出来なかった。


 この時の体験から、私は七人の子のお産を重ねるたびに、上手に切り抜けることを覚えた。勿論母乳育児であったよ。なんだってやればできるもんだと思ったし、陣痛が始まってから自分で運転して入院することも、なんてことなくできることが分かった。甘えないこと。できることは自分でやること。その覚悟がなければ子育てはできない。何とか自分たち家族のこととして、工夫して努力して心を込めて生きることを学んだ。強くなれたからやれたのだし、強くしてくれたのは子供たちだった。


 それにしても楽しかったな。その最初の子の誕生日がこの日。この日は私が母親として誕生した第二の日でもある。第一の日はもちろん妊娠に気が付いた時。働きながら出産費用をためることがまず第一関門だった。自分で産着を縫い、おしめを縫い、手で作れるものは皆出産前の一か月で用意した。そこまで働いたから。それが親になるということだと思っていたから、自分の親をあてにはしなかった。あてにしたところで,BABAは「自分のことでしょう」と突っぱねた。あっけにとられている時間はなかったので、何も言わずに全てを一人でやった。これでよかったのだと思う。妊娠初期に、「赤ちゃんの物は準備してあげるから、働けるだけ働いたらいい」と言われてすっかりその気になっていて何一つ用意しないまま里帰りした私だったから、もし何もかも親がかりだったら、その後の子育てはつらいものになっただろうし、甘えて寄りかかっての育児になって、子供も二人くらいであとはもういいとあきらめただろう。


 私は自分の生き方を、心から良いものだったと思う。他の人のように自分の楽しみの時間もお金もないけれど、いつも誰かのために生きる時間と労力を守ってきたことは、私自身にとって良い事だったと思う。私は自分に与えられた時間と命を、精いっぱい生きたと思うから、あまり後悔はしていない。この人生に悔いはないと思って生きていって死ぬのならきっとその死は心安らかなものになると思う。たくさんの死を見てきて、けっこう安らかに死ぬのは大変なものだとわかっている。燃え尽きて死ねることは幸いなことなのだと思う。かくありたいものよ。