午後から研修があるが

榴岡公園

 午前はフリーなのでS高校の生命の授業の原稿に取り掛かる。今年は出生前診断に触れることになるだろうな。命の選択をなぜするのか。安心して親が生きてゆける環境を持っていないからではないのか。ますます格差は広がっていくこの時代。他人ごとではない命の選択がいたるところで行われている。それは気が付いていないだけで、私自身にも内在している問題である。

 老いの時間をいかに過ごすのか。朝早くのラジオで、命は墓に入るまで自己責任であるといっている人の意見を聞いた。それは孤独死した遺体が腐敗して環境を汚染し、近所の御迷惑になり、借家であればその物件の価値を著しく下落させ、リフォームに大きなお金が必要だからだという。経済面から考えればもっともではあるが、ならば、死に場所を選べばよいのかという極論さえ生まれかねない。それでは山の中で死を待てと言っているかのように聞こえてくる。遺体は大地に返ればよいのか。姥捨ての世界観と同じではないのか。某大学の教授の見解であったが、一気に目が覚めてしまった。