新聞に目を通していて

秋田 旭川

いじめ、というあやふやな言葉で表現してはいけない事件が増えたと思う。あたかも許容範囲のことであるかのような、いじめという言葉の軽さ。そして殺人以外の何物でもないその結果の悲惨さ。児童虐待がしつけという言葉に置き換えられて、誤魔化されているのと同じ不快感がある。
 そう言いさえすれば、当事者は加害者としての自分を見なくて済む。ちょっと行き過ぎただけで済ませようとする。相手のその行為が、死に値するものであるかどうか、考えたらわかりそうなものだが、そこまで思い至らない愚かさ。愚かすぎてむかむかする。もし、自分が同じことを要求されたら、何も言わないのか。しかもその行為を楽しむ残虐性を見ないわけにはいかない。なんと未熟で、冷酷なのだろうか。
 命のなんという扱われ方。押しなべて、今この国の中に行われている小さなことも大きなことも、生命の、人軽視、人権の軽視以外の何物でもないように感じる。派遣法改正も、憲法改正もみな他人の人生だから、軽々と扱っている。もしそれがわが身のことだったら、同じ結論になるのだろうか。まるでパイを切り分けて投げ与えるようなやり方は、許したくない。
 この国の、今の政治について、いつの日にか歴史がその愚かさを証明するだろう。多くの人生が、命が踏みにじられた後で。誰もこの愚行を止めようとしない。この国に希望はあるのだろうか。良識はあるのだろうか。