月二回の分かち合いの会

若葉がいそいで伸びる

 自殺予防という言葉が叫ばれて久しい。やっと、亡くなる人は三万人を切った。法律も出来た。しかし三十代以下の若年層の自殺は減らない。このところ目立っているのは、子供を亡くした親の参加と、配偶者を亡くした若い家族の参加。それからパートナーを失くして生きる意味も喪失してしまった若い人たち



 かつて中高年男性と、老年者の自殺が問題視されてきたが、「今、まだ人生の入り口にいて、これから社会に出てゆく年齢」で、自らの命を絶つ人が減らないという事実。それはいかにこの国が生きにくくなっているかを表しているようにも思える。若い人にいくら命の大切さを訴えても、それは言葉だけで頭の上を素通りしてゆく。そんなこと誰に言われなくてもわかっている。命が重いという事なんか、身にしみてわかっている。そのことと、今自分がやろうとしていることとの関連がない。私が死ぬことと、この理屈の間には実感できないほどの距離がある。



 もう生きなくてもいいかな。こうつぶやくことの回数がじわじわ増えていって、ある日、「もういいかな」と思う。そしてそこがスタートラインになる。
 もはや命の倫理なんて関係のない異なった次元に行く。そしてどうしたら完璧に死ぬことができるのかをシミュレーションする。毎日毎日、イメージトレイニングをする。もしくはふと、あるきっかけで心が爆発し、決行する。ふわりと飛び出してしまう。そこには後も先もない。只、今があるだけ。


 死にはその先も、その後もない。ただ単純簡潔に死そのものがあるだけ。引き返す最後の可能性がどこにあるのか。それは本人にもわからない。まして家族がそれをキャッチすることは難しい。しかし、その死が実行されたとき、すべての痛みを背負うのは最も身近にいた人たちである。その人たちの二次的な自殺予備軍の確立は高い。私はその人たちの後追い自殺を食い止めたい。自分の理由で自殺すること以上に、いとおしい人の死の責任と、自らの人生の絶望感を重ねての死はあまりにも悲しい。



「悲しみのはての死」の連鎖を断ち切りたい。その悲しみを抱えて、なお自分らしく生きてほしい。そのために私はこの場所に自分の時間を費やせることに意味を感じている。たとえ一人の命を守ることもできなかったにしても。そのことの結果は、私の仕事ではない。そこから先は神様のなさること。Not my job、そう思いながら。この一回を生きる実感の場所にできたらと願う。またこの次があるならばそれだけ生きている時間が確保されてきたという事。遺族という生き方はそれほどに苦しく危うい。そのことの理解者であり、同行者でありたい。