いろいろあっても

元寺小路教会小聖堂 マリア像

 依存症に苦しんでいる人がいる。一つの依存を克服してもそれと交代して次の依存がやってくる。形を変えてやってくるのがアディクションというものなので、見えているものだけではなく見えないものを解決しなければならない。ちょうど壁に映っている炎にいくら水をかけても火が消えないのとよく似ている。だんだんにより被害の少ないもの、害のないものにスライドして、生活の中にアディクションの収まり場所を作っていく。そしてそれを抱えながら自分らしく生きてゆく方法を身に着けてゆく。

 火元を探して、水をかける手伝いをするのが私の役割でもある。私が火を消してはいけない。あくまでも火を消すのは本人でなければ、再燃する。いや、再燃するものなのでそれは仕方がない。再燃しそうなとき、再燃した時に、本人が対処することができるのは、一度自分で消した体験がなければそれはできない。繰り返しに耐えてがっかりしないで伴走する忍耐と勇気が必要な支援。アディクションの克服にはこの支援者を得られるか否かがカギになる。ケアをするものがしっかりとした自分の支え手を持っていることが第一条件だ。深い信仰と人間愛を持った宗教者がかかわっている場合は成功することが多い。


 一番肝心なのは、支えるものも支えられるものもともに自分の無力さを知ること。自分にはできないけれど、大きな力を信頼して、その力の支えの中でなら「わたしにはできる」と信じること。その信頼の土台の上に自分の力以上の力が出る。頼るというものではない。ゆだねるという言葉がぴったり。伴走者としての暖かな人が必要。突き放さず、関わりすぎない人が必要。依存の克服はチームプレイ。よき人との出会いが大切なカギだと思う。