姫を大学に送って行って

ふと、このまま車でまっすぐ走ってみたくなった。どこまでもどこまでもとにかくまっすぐまっすぐ走って海に出た。震災で津波に襲われた地域だった。あの日から私はこの海を見ることができなかった。夕日間近かの太陽が黄色く光る中でサーファーが屈託なく波に身をゆだねていた。
 遠く波の中に揺れる小さな黒い人影を見ながら、あの日のことを思っていた。人は忘れることができる。そしてあのことがあった以前のことを繰り返すことも出来る。サーファーを責める気持ちはない。ただ同じ海を見ながら私と彼は別の時間を体験しているのだと思った。
 多くの被災者と話していて、被災者が傷つくときに体験することはこのような気持ちのずれを無意識の領域で体験した時なのだろうと聞いた。そこにいる誰も悪くはないにもかかわらず、深く人は傷を負う。それは予告なく突然起こることなのであらかじめ避けることも防ぐことも出来ない。
 それでも根気強くやれば立ち直る手段はある。訓練して気持ちを整えることはできるようになる。過去に戻った感情を、今ここで何があるのかを感じ取ること。今ここに立ち戻ること。過去に飛ばされてしまった気持ちを手繰り寄せ、今を認識すること。繰り返し、繰り返し自分に、意識して現実を取り戻すことを課す。
 冷たい風とはるかな波の音は何事もなかったかのようにゆっくりと単調な姿を見せている。ここに不安は何も存在しない。この私を脅かすものは何もない。海はかすかに水平線がかすむ。空にはくっきりと飛行機雲が長く長く線を描いている。三日後は雨か雪だろうな。