四旬節に入っています

偏光レンズの向こうの空

復活祭までの償いの日々が始まりました。四旬節はレントと呼ばれ、やがて来る復活祭のために身も心も清めるための荒野のイメージです。昔は償いのために厳しい節制の時期でしたが、今は社会生活に合わせて緩やかな暮らしになりました。イスラム教のラマダンのようなものかもしれません。肉類は一切ダメで、子供はおやつを我慢したり、昔の話ですが修道者は苦行をしたり、一般の信者は置かれた場所でできる限りの善い行いをたくさんしたり、教会では黙想会をしたり、それぞれが自分の生活の中で決めた、この一年の日々を清めるための潔斎の日々を過ごします。



 一年の流れの中で、一度徹底的に自分の生き方を振り返り、自らの行いを顧みて、償うべき負債を償うためにこの日々があります。これは義務というよりも。自分の心を整えるための大掃除の期間と考えるべきでしょう。後ろめたい気持ちを抱えて神の前に立つことは人間を不自由にします。心から軽やかに生きるためにはどこかで自分の心を整え重荷を下ろす必要があります。そのための時間を持てることは幸せなことです。私は一年の中でこの期間が最も好きかもしれません。自分の行い、怠りを自分の意志で正す時間を与えられていることは恵みです。



 四旬節の大きな目的に生活の整理があります。物欲・所有欲・食欲・人間関係…様々な不要な物からの解放です。ひところはやった断捨離に似ていると思います。囚われるもの・囚われる事柄・囚われる思いからの解放が本来の目的です。回心のためにはまず捨てることが必要です。


 自分の執着のあるところに、自分の心もあると聖書に書かれている様に、私の魂の帰ってゆくべきところが、バックやアクセサリーではあまりにも悲しい。もしかしたらもっとささやかにおいいしい食べ物だったりするかもしれないけれど。
 亡くなったお母ちゃんは、若い私に「物に支配されてはいけない」とよく言いました。「これがなければ困る、という不安な状態を作らないことが、自由に生きるためには必要だよ」と言われました。私はいつもその時の情景を思い浮かべます。あの時彼女は何を捨てようとしていたのだろうか。死ぬときに、この体さえも置いてゆく私たちなのだから。愛する者たちさえも置いてゆく私たちなのだから。