車の事故

ひびの入った壁がまだある

 あちこちで若い人たちが車で事故を起こして亡くなっていく。悲しいなあ。もっとやりたいことや、生きたい人生があっただろうにと思う。私たちが生きていくことは決して自分の歩みだけではない。自分の力だけではない。そのことがわかるようになるためにはいくつかの命と出会う必要があるのかもしれない。思い通りにならない人生と、出会いと、別れの果てに自分の限界も、命のかけがえのなさも静かに理解できるようになる。まだ人生の入り口で死んでいってはいけないのになあと思う。

 大人になりたくないし、わかったような言葉は聞きたくないし、あなたに何がわかるっていうのさ。と言われて、確かにそうだろうなと思う。ただこれだけは言える。私は私のキャパの小さなことも、底の浅いことも、人としての未熟さも、忍耐のなさも、視野の狭さも、勇気のなさも、理解力の少なさもみないやというほど味わってきたし、だからここまでという限界ぎりぎりまでやることができる。

 私の武器は自分の限界を知ったということで、どこまでなら責任をもって物事を担ってゆくことができるのかを知っているということだ。そのことを私は恥とは思わない。小さな者には小さいがゆえに満たすことのできる穴がある。人生が私を用いてくれるならば、私は小さきものとしての自分を一生懸命に生きるだろう。生きることは私にとって何がしかの目的と、確かな意味をもたらすだろう。フランクルが教えてくれたように、たとえ過酷な問いかけであっても、人生にイエスと答えるだろう。

 穏やかな人生であれ、過酷な人生であれ、個人的なささやかな立場から見ればそれは同じように先の見えない、今ここで起きていることの答えの連続でしかない。現象学的にいうならば、まさに生きるということはそういうことなのだと思う。