それはどんなところなの?

定禅寺通りのけやき並木

 自死遺族の支援を始めてもうずいぶんの年月が経つ。それはどんな集まりなの?と尋ねられることがある。そこに集まってくる人たちの何百倍もの来られない人、来る気になれない人たちがいることも知っている。だから、そう聞かれると、何を知りたいのかな?と思う。そんな思いの中でこう尋ねられると答えは何が正解なのかと迷う。
 そこに来るメンバーは、大切な人を自死で亡くされた人たち。お互いに身元を明かす必要はない。話したくないことは話さなくてもいい。ただ自分の今の気持ちを話せる範囲で話してくれればいい。

 ただし、してはいけないこともある。議論しないこと。自分のこと以外に話を広げないこと。悲しみ比べをしないこと。人を批判しないこと。話している途中に割って入らないこと。暴力を振るわないこと。そしてこれは大原則、ここで話されたことは決して外に持ち出さないこと。

 たとえ「その出来事」が起きたのが数十年前であっても、今もなおその出来事が自分の心を苦しめ続けているならば、そんな人が来てもいい。どんなに悲しみ嘆き、自責の念が深くても、たとえ同じことを何十回と繰り返して語っても構わない。
 「もう何年たったから」とか「そんなに悲しんだら成仏できないよ」とか「いい加減に忘れなさい」とか「まだ生きている子供がいるではないか」とか「若いのだからやり直しができるよ」とか「時が解決するよ」とかそんな言葉はここでは語られない。たとへ「後を追って死にたい」と叫んでも「私もそう思う時があるよ」「その気持ちわかるし、私だって同じだよ」という言葉が実感をもって語られる。この場所には自分の気持ちを非難せずに、分析せずに、ただ共感といたわりをもってありのままに受け入れてくれる人たちがいる。受容される体験を重ねてゆく中で、その人自身の生きる力が、その人自身の心の傷を抱えやすく大切に守るべき位置にそっと置いてくれる。遺族は一度遺族になったら「遺族という人生」を生きてゆく。その人生は決してそうでなかった人生よりも劣るものではない。その人らしくかけがえのない人生をまた自分の足で歩みだすために、もだえ苦しみ嘆くこの時間と場所が必要であると体験的に気づいて行く。自死遺族の分かち合いの会とはそういう場所である。

人は変わることができるし、何歳になっても成長するし、新たな人生を歩き出すことだってできる。すべての体験はその人にとって無駄ではない。この悲しみでさえも。