今日は集会があった

定禅寺通りの街灯

 久しぶりに自分の団での役割を果たす。かつて私の子供たちが幼かった時に、自分はこの子たちの人生にどんな夢を見ているのだろうかと思った。一番気を付けたのは親子であっても子供は別人格であり、子供の代わりに親が子供の夢を見ることはできないということだった。
 子供たちはそれぞれに「今、自分が一番大切だと思うもの」を握りしめている。その先に何が待っているかなどとは考えない。その夢がかなうかかなわないかは、どれくらい強くその実現を握りしめ、歩きとおしてゆくかということにかかっている。それであっても、ある時、ふと希望の手綱を自ら手放して別のものをつかもうと決意する時が来る。その時、潔く手を放せるのか、それともそこに後悔の苦味が混じるのか。大人たちは痛みや苦みを極力味あわせたくないと思うけれど、それもまた代わりに飲むことはできない。
 人はそうやって自らの人生を歩んでゆく。それは誰にも代わってもらうことができない、自分しか歩くことができない旅路である。
 幼いスカウトたちを見守りながら、できる限り痛みのない、穏やかな旅路を願わずにはいられない。たとえそれが大人の、あらかじめの願いであっても・・・・