非公開第一日目

光あれと

自分だけのためにブログを書くなんて初めての体験。そもそも見知らぬ誰かの必要を満たすためのものだったはずが、いろいろな感情のもつれからこんな形をとることになって、不本意

家族を抜きにして「自分の心象風景だけを」吐露することなど何の意味があるのだろうか。そんな自己満足な状況に居心地の悪さを感じる。
藍の会の田中さんが自分を露出することで参加者の実感を引き出すことができたように、私もある程度の実証としての自分の生きる姿をさらさなければ見知らぬ人の心に臨在感を感じさせることはできないと思うのだが。
ノンフィクションであることの必要性を私は思うのだけれど。


仕方がない。今何ができるのかを考えて行動するしかない。遺族支援のありかたをもっと力のあるあり方に向かうようにと思う。自分の問題ととらえなければ、続けることは無意味だ。


どうすれば楽しくなるのか。生きることを喜べるのか。
何をもって生きることの意味を伝えられるのか。
命は誰のものか。
生きることにどんな意味があるのか。
生き続けることがなぜ義務なのか。
ストレートな答えはない。
死んではいけないからと一言でくくっていいのか。
それは答えにはならないのではないのか。
生きるように作られているからというのもおかしな答えだ。
実感をもって生きることの後押しをするのでなければ単なる言葉の遊びでしかない。
生きていてもいいのかと問われ、おうむ返しにいいに決まっているよというのは簡単だ。
自分の意思で始めた命ではないから自分の意思で立ってはいけないというのが一つの答え。
では誰のために生きるのかと問い返されて何と答えるのか。


生き惑う人の心を文章に書いたとしてそれが答えになるのか。そもそも生きることに疲れて死にたいと願う気持ちに、第三者の答えが必要なのか。生きるに値するかしないかは命それぞれの個々の感覚なのではないのか。それに普遍的な答えを求めようとすること自体が無理なことではないのか。


私は生きたいのか。
それは死ねないということの裏返しなのか。


そのことを突き詰めて考えてみる時期に来たのかもしれない。
この暮らし、この家族を是とするのか否とするのか。
そこに私は必要なのか、もはや必要はないのか。私の視点だけで考えてよいのか、もしくは私以外の視点を求めるべきなのか。


命の決定権は誰にあるのか。
父と母が私の命を必要とし産もうと決心し、産んで育てようと決心して育てた結果が、
私という人間のそもそもなのだとしたら、
生きているこの私はいったいどこに決定権があるのだろうか。

生きていくことは誰かの命を支えるための営みなのだろうか。
そこに初めて神の意志が働くのだろうか。