またこれから降るそうな

ミサの前に雪かきをする

 スパイクタイヤもなく、裏通りはもちろんメインの通りも完全除雪などできる筈もなく、この雪には恐怖を感じる。雪は昔から身近にあったし、生活の中にしっかりと存在していたから大好きだった。なぜこんなに恐れるようになったのか。雪が怖いのではない。無防備に、何の備えもせず、訓練もせずいきなりの雪という感覚で「なんとかなるさ」と雪道に出てくる車が怖いのだ。そして自分の家の雪を車道に投げ捨てる無神経さ。車は雪の塊に乗り上げ、またはぶつかりスリップする。
 雪国では自分の家の前の雪を道路に投げ捨てることは絶対にしてはいけないことなのだ。今、なんと多くの家の前の雪が車道を雪捨てにして片付けられていることか。自分の家の前の車道に雪が残り、自分の家の前がスッキリしていることは本来恥ずべきことなのだが、その感覚はないらしい。
 私達が子供の頃は雪かきのマナーを大人たちに徹底的に教えられた。雪は魔物になり、命を奪うことになることを教えてもらい、それだけは守った。雪かきをせずに自分の家の前の道で歩行者が転んだら、その家の人の責任だとまで言われた。雪国は助け合わなければ暮らして行けないのだから、子供とて除外はされなかった。
 いつどこでこの暮らし方がなくなったのだろうか。一つには全国規模で、転勤して人が交じり合い、雪国の暮らし方を知らないまま住んでいる人達。近所づきあいがないので自分一人動くのは変だと思っている人達。誰かに命令されなければ動けない自己判断のできない人達。誰かがやってくれるからいいかと人任せの人達。自分には関係のないことと思う人達。自分の車さえ動けばいいと思う人達。この集団がひとつの町内に混在している。もしここで火事が起きたら、病人が出たら、緊急車両が稼働できるのかなんて誰も考えていない。私が子供の頃は消火栓の確保と各住宅からメインの道路までの確保は町内会と、各自の連帯責任だった。

 また雪が降る。今回の雪を踏まえてなにかが変わるだろうか。エレベーター脇に「角スコップあります。お使いください。自治会」の張り紙が新しく貼りだされた。もう街のどこにも雪かきの道具は売っていない。我が家の雪かきも引っ越しの時の荷物の整理で、修道院に寄付してしまった。高層住宅では自治会が雪かきは装備してあるだろうという思い込みがあった。甘かったね。
 個人で一年に二度三度の大雪のために物置もないのに買って準備するのもアホくさい。本当にそれでいいのかなと、今回はつくづく思った。差し上げてしまったものは返してとは言いにくいから、どこかで見かけたら来年のために一本購入しておこうと思った。今は畑用の剣先スコップが頼り。
 私の知人は若いころ新潟で暮らしをしたことがある。今回の雪に、何も道具がないからとフライ返しでアパートのドアの前の雪を各部屋ごとにどけていったという。黙っていられなかったのだろう。自分だけという訳にはいかないと思ったのだろう。深夜、老人が自分のドアの前の雪をフライ返しでどけてくれたことをだれも知らないのだけれど。