今日は薬が切れて通院

塀の上にハリネズミ一家が

 震災後に発症して薬を飲み続けている。症状は寛解。生涯薬は手放せないだろうけれど、かなりの無理が効くようになった。娘時代は超低血圧で悩まされ、それがとんでもない高血圧の数字で仰天した。薬をのむようになったら、ひどい頭痛はなくなった。頭痛薬の問題ではなく血圧だったのかと思った。いつの間にか母親と同じ体になりつつあるのだなと思う。血は争えない。体は正直だ。などと思う。
  山好きのお医者さんで「先日白神山地に行って来ましたよ」と言ったら、「いいねえいいねえ」と羨ましげだった。山は人を生き返らせてくれるということで今日は戻ってきた。休日がないからぼんやりと過ごせないことや、いつもこれを終了したら次はこれと、スイッチを切り替えながら生活していることや、自分の体調でスケジュールが決められないことなど、まだまだ私自身の健康管理には問題が山積している。それでも数値が安定してきていることは確かなので嬉しいと思った。
 健康に不安があるのは年齢的に致し方がないけれど。遺伝的に何を持っているのか知りたいなと思うことがある。知ってどうするのか。自分のためではなく、子供に何を引き継いだかが知りたいのかとも思ったが、それなら子ども自身が検査を受ければよいではないかと思った。遺伝子のレベルで何を引き渡してしまったのかを責任として考えるのは行き過ぎだと思う。そこまでひとは責任をとれはしない。にもかかわらず、もし何かを引き継いでしまってそれで子供の人生に支障が出たならきっと親は責任を感じ、一生責めを感じるだろうな。
 ふと原罪という言葉が頭に浮かんだ。私は何を子どもたちに引き継いでいるのだろうか。そして子どもたちは何を遺伝によって予め人生で失っているのだろうか。不完全な人と人が結び合って新しい命を生み出すが、予めその生命には将来の苦しみが予約されている。とすればその痛みの連鎖は私もまた引き継いだものである以上、命の発生時点で選択の余地のないものである以上、原罪のように宿命として受け入れることが正しいのだと思った。そしてその上でいかに人として生きていこうとするのか。そこが人間の人間らしさの出発点であると思った。
 今、病院や出先で待ち時間を潰すために読んでいる本がある。気持ちがふっと楽になる。

人生は、意外とすてき 私をいつくしむための50のレッスン

人生は、意外とすてき 私をいつくしむための50のレッスン

 がん患者であり、al依存症体験者であり、シングルマザーも体験している。めちゃめちゃな人生を寄りかからないで自分で生きてきたひと。成功談でも抹香臭くもなく、どこにでもいそうでなかなか出会うことのできない人。こんな人に私もなりたいのかな・・・・・と、ふと思ったりするが。とにかく私はこの人の存在感が好きだ。

今日は夜は研修がある。日中は買い物と、ぼんやり過ごせる時間を大切にしたい。