雨のち晴れ

小さなバラが咲いた

 久しぶりに空を見た気分がする。教会の仲間でお天気が悪いと出て来られない人たちも、ゆっくりゆっくり歩いて,何とか教会まで来ることができる。お天気ってほどほどでなければ、暮らしに支障が出る人達がいるんだなあと思った。自分がまだそこまでいかないってことは若いってことかい?
 今日は教会の仲間で洋裁をやっている人が、バザーのために少しずつ作り貯めているものを、頼まれて持ってきていた。其の中で、親しくしていた人の遺品を材料にリフォームしてテデイベアに作ったものを買うことができた。遺族が「お父さんのガウン」を材料として寄付したのだ。私の息子が亡くなった時、彼は火葬場まで一緒に来て最後の寄り添いもしてくれた。その彼が亡くなってはや二年経つ。こんな彼の思い出のガウンが我が家にやってきた。くまくんに彼の名前をつけた。一緒にもう少しいてね。と思った。
 しかしながら耳が遠い人と電話で話すとき、一度聞き取れないと、相手が繰り返し聞き直していくうちにますます混乱して、そのうち聞き取れないことでパニックになって収集がつかなくなることを体験した。その混乱のループをいかにして脱出させて、伝えるべきことをきちんと伝えるかは至難の業。正確に伝わらなくても、程々の所で折り合いを付けることが大切かもしれないと思った。物の名前や、人名でも次に情報として使う可能性のないものは、間違っていてもあえて訂正しないで、話すべきことだけに絞ったほうがよいと思った。伝えたいことが伝えられたら多少の行き違いは目をつぶってもいいさ。其のほうが最終的に電話の目的を果たす事に成る。