タグを取る

 肌にピッタリする夏のシャツを出して着始めた。スポーツシャツだけれど、襟首のタグが痛い。母は季節変わりの時は必ずこのタグ外しをしていたな。ほんの少しのことでも薄着になる夏は汗もかくしこんな小さな刺激でも肌に負担をかける。ささやかだけれど大切な女の手仕事だった。今、私は家族の衣類の一つ一つにこんな心遣いをしてはいない。
 きっとみんな何も言わずに我慢しているんだろうなと思う。家族のための仕事、手の仕事は義務だとは思わない。気持ちと時間のゆとりの仕事だと思う。時間が静かにゆるやかに流れているからこそ気がつくし、手当もできる。ささくれた気持ちではこんなささやかな出来事は抹消されていってしまう。
 翻ってふと思うことがあった。家族間の気持ちのスレ違いと、感情の行き違い。言葉に対する感性も時間と気持ちに緩やかな幅がなければささくれて終わってしまう。人の心は壊れやすく傷みやすい。そこをいかに羽ばたかせて自由に解き放つかは実はほんの少しのゆとりと時間の調整なのかもなと思う。それは失われて初めて気がつくようなとてもデリケートなものだ。
 失われきってもまた取り戻そうと思えば、そして努力すれば泉は再び湧き出す力がある。生命は枯れる方向性よりも、湧き出る方向性を強く持っているものだと思う。日常のこの緩やかな居心地の良さは命そのものが生み出す特性なのだと思う。お金でも、権力でもこれは買えないし、奪えない。そのことが救いでもある。そして私の心の泉は枯れてしまいそうかなとも思った。