何となく もうけもの の一日

雪の壁が連なっている

 仕事は曜日で来るから内容には変化なし。仕事そのものは人間相手なので一日として同じと言うことはない。不思議だなあと思うのは認知が進むまで死ぬことはとても身近に感じられて、そのくせ自分は大丈夫とどこかで思い込んでいる。死はいつも他人事。やがて来る自分自身の死は、認知症が進んでくると身のうちの事実でありながら自覚することはできない。このことが幸せなことか不幸せなことか、周りのものには判らない。本人はどう感じているのだろうか。
 今私が関わっている人たちに人生の締めくくりの意識はほとんどないと思う。自らの命の終わりだけではなく、家族としての生活の終わりの日も、夫婦としての別れの日も無自覚に過ぎて行った日々の延長線にある。生は死に呑み込まれやがて死そのものは忘れ去られていく。その人を記憶している人がいなくなってしまえば、その人が命あったことさえ、その人がこの世にいたことさえ何も残らない。
 もうけもののようなこの一日をそんなことを思いながら仕事をした。心のどこかに、今まで仕事で出遭って、やがて消えていった人たちの面影がちらつく日でもあった。花を手向けることもなく、線香を上げることさえなくただ一枚の支援活動終止書だけがその人と私が共に歩んだ日の記憶の証。