朝五時前に目が覚めて

住宅地で見かけた なんだろう?

 お布団の中で半分眠りながら、一体お弁当を何個作ったことだろう。未だ起きるには早いから、もう少し寝ていよう。まどろみの中、今までのことがぼんやりと戻ってくる。
 あの小さな末っ子娘の姫が、教育実習に行く。お弁当を持っていく。このところ体調を崩して朝起きられず、ずっとお弁当を作っていなかった。おかあさんなのにな。申し訳なさもあってコンビニで買っていくからというのに作って持たせたかった。昨日のジャーマン・ポテトを土台にブラジル風コロッケを作った。頭が眠っているらしく手がうまく動かない。菜ばしを取り落としたり、コロッケをつぶしたり全くうんざりして思わず「しっかりしろよばあ様」とつぶやいた。孫はいないけれど同級生はみなJIJIBABAになっているのだから、若い人がそばにいたらきっとこんな一言を言われてしまうのだろうな。てへっ。
 ふと思う。私の年齢になってもこうやって時間に追われながら、社会の一員として何がしかの役割を持っていられるのは、ありがたいことなのだ。
 姫に昨日「母、老けたな」と言われ、私はその言葉に納得した。震災後私は自分が今までの分をまとめて老いてしまったように感じることがある。心が前に進むことをためらっているように感じるとき、身体が思うように動けないとき、自分を叱咤激励することはもういいかと思う。
 以前のエネルギッシュで確信に満ちた自分はもういない。生きてここにいるあるがままの自分をもう一度建て直して、まず一歩。この一歩を踏みしめて叉一歩。壊れてしまった私の体はもう元には戻らないけれど、それでもできることは未だ沢山残されているのだろう。残っている時間を楽しみながら過ごすには充分。嘆くことはない。何もしないで生きていくことなど不可能なこと。
 人生とは単純なものだ。足しもせず引きもしない、在るがままの自分を淡々と受け入れて、慈しみ、今この一瞬の自分の状況を見極めて、大切に生きようと願う。老いることは失ってゆくことでもある。失っていくことを受け入れ身軽になっていくことでもある。できなくなったことを軽やかに手放していくことでもある。最後には時間の前後もわからなくなり、自分が誰であるのかも判らなくなり、今どこにいるのかさえわからなくなり、ただこの身体だけが自分の宇宙のすべてになって、解き放たれて次の次元へ。
 老いは決して不幸ではないと、そういえるような老いを生きたいと思った。