このところ

カラスアゲハ

また中程度の揺れが続いていた。震度3〜4〜5まで。5ヶ月目に近づくと無意識のうちにも不安が高まっていく。8日あたりからよく揺れるなと思う地震が繰り返し起こっている。また来るのかな。あの日のような地震が来るかなと思う。ここしばらくは年単位で4月7日規模の大きな余震が来ると言われている。明け方の三時過ぎにいきなりぐらぐらっときた。すぐ跳ね起きて各部屋の安否確認をする。


 何が怖いかってまた津波がくるのではないのかという恐怖。震源の確認は自分の震度よりも重要だ。今夜は福島だった。そうなると原発はどうなのかと思う。これ以上酷いことがもう起きませんように、とそれだけを願っている。この震災は五ヶ月たっても未だ現在進行形なのだ。我が家だって、今度大きなものが来たらもう居住不可能になるかもしれない。だけど今どき借りられるマンションも、購入できる住宅などこの街にはない。ホテルでさえ住居と化しているのだから。


 今のこの生活もこれ以上何もなけれはかろうじて維持できるレベルのことにすぎない。今出来ることそれだけを懸命にやろうと思う。誰のためでもない。私は自分に向かって「あの時、お前はあの場所で何をして生きてきたのか」と問い、明確な答えを持ちたい。生きようとしてきた道を、こんな状況だから仕方なかったじゃないかと言いたくない。後悔しないで生きて・・・最後のときまで生きたい。せめてこの小さな自分の人生にごまかしは持ちたくないのだ。誰かはごまかせても、私自身はごまかせない。せめて自分自身にだけは誠実な気持ちを持って死を迎えたい。


 今回のような出来事に遭遇すると自分の生き死にを知っているのは自分ひとりなのだということがよくわかる。私と神様と、すべてを知っているのはこの二人だけだ。ここに偽りが入り込んでは立つ瀬がないではないか。やれることをやれる時にやれる形でやる。とにかくやる。結果は問わない。誰がその収穫を懐に入れてもかまわない。私はひたすら種を蒔き続け、育てる。それがわたしの人生の課題だと思う。立ち止まって誰が収穫をしているのかを見ようとは思わない。それは私の役割ではないのだから。私の人生はそういうものだと思う。報酬は求めないと決めている。


 今日はケースを一件。それからクライエントが転施設したので訪問に備えて地図を貰ってくる。月曜日訪問する。津波の後の施設で、このままではこの人は見捨てられてお金だけむしりとられて殺されると判断したから、ありとあらゆる方面に訴えてやっと救出した。命を支えられたと思った。ひとつ、また次のひとつ。私はそれでよい。