判ったこと

女坂を下る

自分自身の分析をしていて、いかにこの震災の体験によって自分の心が規制を受けているかということ、自由度が奪われていることに改めて驚く。この自己規制は何から来るのか。相手のあまりの傷の大きさに自分の気持ちも言葉も押し籠めているのだなと思う。押し籠められた気持ちは疲労感になったり、不眠になったり、怒りになったり何とかして心から発散しようとする。そのことが動かせない感情の塊のようになって心の奥底によどんでいる。さわやかに生きたいと思っても今私はそう自分を駆り立てていくことさえ苦しいのかもしれない。ならば、人からなんと言われようと、この「灰色で闇を感じさせる透明感の浜辺をじっと見つめている感覚」のまま時間を過ごすことが、私にとって生きる場所として楽な状態ということになる。無理して明るい私、元気な私である必要はない。久しぶりに中島みゆきの「砂の船」を口ずさんで見る。