何とか間に合ったようで

種を飛ばせ・風に乗って

うまくした物で、この日の予定がみなキャンセルになってぽかんと丸一日あいた。22年度分の会計報告書をそろえ領収書等の資料もまとめた。ああ・・ホッとした。総会の度に苦労するのがわかっているのに土壇場まで動かないから。家計簿もこれくらいきちんと収支を徹底すればもう少し安心して暮らせるのかもしれないなと思った。予算を立ててもいつの間にかはみ出しても平気になってしまう。
 特に今年は三月から、もう一度人生やり直すくらいの経済的なショックを受けた。あの災害直後に感じたことは命があったことのありがたさ。本当に直後は生きていることだけで精一杯だった。それが日を追うにしたがって自分が何のために生きているのだろうかとの思いがわいてきた。何かしなければならないのだろうかと思ったり、生きていられるのだから自由に好きなことをして生きても善いではないかと思ったり、右に左に大きく揺れる。心が定まらない。 
 「生きていること」をこんなに生活の中で考え続けることはあまりないことだった。他人事ではなく、若い人だけではなく、高齢者の口からさえ「いかに生きるか」と言う言葉が出てくるようになった。今まで生きてきたのだからもう楽しく老後を過ごせばよいとの発想は「頂いた命だから」との思いとは相容れない。如何に生きるかは自らの内なる声からの問いかけである。誰も生き方を強制はしない。しかし、周りにあまりにも潔く、けなげに生きている沢山の人を見ていると、これでよいのか自分と思うのも事実だ。被災者はこの日常から撤退することも、平安な生活に帰ることもできない。
 ひたすらに動き続け、捧げ続けることは無理だと思う。生かされた命だからこそ。生きていることをよきものとしていとおしむことも許されるはず。生かされているからこそ、喜ばねばと思うのだ。
 もう頑張らなくてもいい。もう一生懸命捧げなくてもいい。人間らしくゆったりゆったりと自分の人生を生きていけばよい。いい人にならなくても、普通の人として生きればよい。
 被災者は、頑張り過ぎている。もっと休息をとりながら生きていいのだと思う。


 なのに、また自殺者が出た。生きる道が見えなくなって、誰も助けることが出来なくて、それでも亡くなった人を「負けた」と言うのだろうか。これ以上どうがんばればいいの?お金で済むことなら、命をかける必要はない。義援金の話を聴くたびに腹立たしい思いに駆られる。