病弱で

秋は夕暮れ

 目を離すとよよよと崩れてしまいそうな母と、その看病の為に仕事もやめひたすら尽くす子供。美談だけれど、本当にそれでいいのか。40代の半ばに差しかかろうとしている子供は精神的・知的障害がある。
 まず子供の社会的自立を。そして母には目一杯の介護保険の利用をと思うのだが、いざ段取りが進むといつも立ち消えになってしまう。子供が気まぐれで、母が病弱で、わがままでというのだが、今日ケース会議で私には違う面が見えたような気がした。
 母は、子供がでかけようとすると「行っていいよ。行きなさい。こんな私を置いて。ああ痛い痛い」という。子供は「大丈夫?やめようか?」母は、「わたしは行ってよいといったのにお前が勝手に行くのをやめたんだからね」完璧なダブルバインドになる。行けば身勝手な薄情者といわれ、行かなければ行って良いといったのに行かなかったのはお前の気まぐれだといわれる。どちらに転んでも子供は責められる。
 そして混乱する。後にはもやもやとした不愉快さがのこる。だから子供は仕事をやめざるを得なくなる。子供の問題ではなく、本来はこの母の問題なのだけれど、周りから責められるのは子供で、母は働けない子供を持った気の毒な親と扱われる。
 気がついてしまった以上黙っていられない。この「病弱に名を借りた支配」からこの子供を救い出さなければ生涯この人は親の生きている限り縛り付けられて終わるだろう。介護の陰に隠れたこの「支配という名前の虐待」をなんとか出来ないものだろうか。
 そして気がつけば、このようなケースはいくらでも転がっている。本当に看病・介護が必要で、子供がその人生を諦めて路線変更しなければならないのだろうか。これでいいのか。怒りがわいてくる。介護保険制度の落とし穴をこんな形で見るとは思わなかった。子供の母に対する愛情を担保にとって結局は母子供の人生をむしりとっている。そして当人達はそのことに気付きもしない。もし私がこのことを指摘しても子ども自身自分が支配されているとは思わないだろう。母にしても痛いのは現実なんだからというだろう。だけどこの母が亡くなった後にこの子供にどのような人生が残っているのか。それを思うと私は腹立たしくなる。生涯をかけて親の面倒を見て結婚も、就職も無し。それでいいのか。本当に・・・・
 出来る限り穏やかに、傷つかない方法でこの親子の関係を正常な巣立ちまで持っていこうと思った。難関はケアマネ。何も感じていない人だ。感じ取る能力のない人に感じてもらうのは至難の業だ。