気持ちが荒んでは哀しいではないか

夕陽の名残とグランドの照明

 交通事故で一方的に人生を破壊されてしまった方が居る。こちらに非がなく、相手側にすべての責任がある。しかしどんなに賠償責任を果たされても、失った機能は戻っては来ない。何とかそれを現実として受け入れていこうとしても、生易しいことではない。
 この気持ちをどう受け入れていったらよいのか。悲しみはあまりにも深い・・。だからこそ、気持ちが荒んでは哀しいではないか。現実が痛みに満ちているからこそ、これ以上過去に起きたことで今日というこの日を失ってはいけないと思うのだ。思いたい・・毎日毎日失い続けていくことをこの人は耐え続けているのだ。加害者はこの日々の暮らしをどうやって償うのか。償いはできない。
 かつて大学一年のとき親分は交通事故に巻き込まれた。ぶつかった二台の車のうち一台の車がはじき飛んで彼にぶつかってきた。あの事故で彼が失ったもの。今も彼の体に傷を残していること。それらを加害者はすでに忘れ去っているだろう。ひっそりと被害者はその痛みを抱え後遺症を抱え微妙に人生を失い続け生きている。後遺症は目に見えるものだけではない。終わりがあるものでもない。
 もうこれ以上奪われるのは哀しい。もうこれ以上奪わせたくはない。そう思いながら、ならば如何に生きていったらよいのか。個人の気持ちのありようだけで解決できることではない。被害者が支払い続けているこの事故の結果が加害者の意識の外にあることはやりきれない。被害者が傷んでいることを、加害者は生涯忘れずに居て欲しい。交通事故を起こすということはそういうことなのだと覚悟して欲しい。
 わたしの関わっている方が失ってしまった人生の計画を、また作り直す気力がこの人に戻ってきますようにと心から願う。幸せに生きる権利まで奪われてはならないと思う。丸い気持ちで生きてゆきたいね。とんがらないで・・・傍に居るわたしも痛いから・・あなたも痛むから。


後ほど