午前中はおうち

鐘楼

午後から施設訪問がある。午前中に、今度教会でする講演の組み立てを考える。「自死・なぜ命を絶ってはいけないのか」というとんでもないテーマを頂いた。この命題はアウグスチヌスとトマス・アクィナスの教義に真っ向から対向して論破しない限り無理。日本の司教団が玉砕した物を私ごときができるわけもなく、こんなテーマをどうせよと言うのだと思うが、誰が考えてもできないのだから、私ができなくても許されるだろうと思う。せめてこじつけの悪あがきだけはしないぞと決めた。
 なぜ悪いのかは論破はできないがこんな事態を引き起こすということだけは私の現場そのものなので話せる。「だから自殺はいけないことだ」なんて言うことはしない。そのことを知った上で「死にますか」と自分に問いかけてくれればよい。命に関して、人間は責任の取り様が無いのだ。もとあったとおりにすることが責任を取るということだとしたら、失われた命は元には戻せないのだから。命は誰の物か。本当に私という存在が決定権を持っているのか。哲学的に矛盾は無いのか。そこから切ってゆくか・・・
少なくとも自死遺族の置かれた現実と、サバイバーのリカバリーに関しては語れるのだからそれを語らせていただき、「なぜ」の部分は個々人の信仰と人生観と体験を以って考え続けていただくということにする。
 正直に言うと、そんな大事な命の根源に関わることを他人の講義で聞いて判ろうなんてとんでもない話ではないか。共に悩み考え、それを土台にまた考え続け、いつの日にか自分で答えを見つけて行くのが人間として当たり前のことではないのか。などと、そのテーマを考えた人の考えの甘さにいらっとした。その人はこの「自殺は罪である」ということを二大聖人が教会に教義としてもたらしたことを知らないのだろうかと思ったよ。こうなると八つ当たりだよな自分、引き受けたくせにと思う。引き受けたのは頼んだ人がとんでもないくらいの善人で断るなんてできなかったから。墓穴を掘ったな・・・私。