癌の末期で

これって何という花?

一時退院してきた人のケア。自分の状況がどの程度理解されているのかがわからないけれど、なんだかとても重大なことが起こりつつあることは理解されている。そしてそのことで自分の人生が変わってゆくこともまた理解している。何ももはや失うものは無い。今、この一時を如何に心地よく凌いでゆくのかそれしか考えていない。それでよいのだと私は思う。残すべき物も無い。子供もいない。家族も兄弟姉妹もいない。たった一人の人生を如何に締めくくるのか。
 単純なことだけれど、遣り残した事をおもうとつらい。そのつらさに他人が短い時間にどうよりそうことができるのか。心はふたができなくなることを恐れて開くことをやめてしまう。言葉が唇からこぼれそうになってすっと引っ込む。今何を飲み込んだのか。ためらったのは何か。言葉を迎えに行くことはしない。引きずり出そうともしない。聞き出そうとしてはいけない。本人の心のままに自らの命に重ねて何を残し何を一緒に持っていくのか。それをまもるのが、この人に対しての私の最後の仕事。
 私は、その人の最後の旅を見届ける。それだけであっても人はひとりで死ぬことから救われる。孤独に死ぬことはやはり耐えがたいことなのだと思う。たとえ自分は意識しなくても母という協労者と共にこの世に生まれ、誰かに看取られて死んでゆく。人はそれぞれの個としての命を生き個としての死を死んでいくが、そこに誰かがいてくれるからそのことができるのだろう。せめて、私はその人の言いたかった言葉、いえなかった言葉を預かって行こうと思った。
 それは心の通い合わない家族に看取られ、最後の思いを閉じ込めて孤独に死んでゆくことよりもはるかに人間として幸せでは無いだろうかとさえ思うのだ。