連休に思うこと。

 世の中が休みになると、私は却って忙しくなる。今までできなかったことをまとめてやる時間が手に入るから。心の整理も大きな仕事だ。自分の時間が持てることはとても嬉しい。もちろん休んでいてもメールは入るし電話はかかってくる。それでも時間の流れはいつもよりはるかにゆったりとしている。
 彼が亡くなった日が近くなってくると、あの時の自分たちの時間がそのまま戻ってくる。記憶の中にはたった今起こっている記憶の中にはあの日のあの時間がそのまま畳み込まれてしまわれているかのようだ。それがそのまま今の時間に重なって今ここで起きていることのような生々しい感覚をもたらす。人は己の心に不思議な世界をいくつも持っているものだ。通常それはかすかな気配しか感じさせないが、何かのきっかけがあれば、それはあたかも飲み込むように心のすべてを支配する。
 そしてそれが自分のコントロールの中で起きていることがまた大きな驚き。必要があれば一瞬のうちに掻き消えて、現状に対応できる心理状態に戻ることができる。生きている自分を損なうことなく現実と心象風景を行ったり来たりできる。心は奪われたりしないのだ。
 だからこそ記憶をたどることも、確認することも、味わうことも自在にできる。無理をして忘れたり、卒業したりすることはない。遺族と関わっていると「悲しみが消えない」「もうこんなに日がたっているのに」というが、それは無理なこと。一人の人が生きて関わっていた思いでは、たとえその人がこの世から去っても、自分の心から消えてなくなるはずはないのだし、なくそうとする必要はない。周りの人の「忘れなさい」「まだそんなこと考えているの。人は何時かは死ぬものなんだから、諦めなければ」という言葉は、優しさに満ちてはいるが、残酷だ。もはや亡くなった人は思い出を作ることはできない。思い出が失われてゆくことは遺族にとって苦痛なこと。だから顔を思い出せない。声を思い出せないといって悲しむ。ただ繰言を聞き、黙ってその相手をしてあげることは周りの人間にとっては苦痛だ。だから、禁止をする。禁止をしないのは、自分もまたその痛みを抱えている人たちだ。分かち合いの会が、有効な力を持つのはそんなお互いに対する共感と、いたわりと、相手の心を察する想像力だ。