ミゼレレ

 ハイチのニュースを見てなぜこんな悲惨な状況の人々がハレルヤと嘆きの中で祈っているのかと思った。これこそミゼレレではないのか。悲しいとき悲嘆にくれることは大切なことだ。まして17日からレントだ。悲しみの中にいても許される時期ではないのか。神がこの災害を与えたとは思わない。神もまたこの哀しみを共有してくださると思う。思うからこそ神にすがることができる。ミゼレレ・・主よ哀れみ給えと心からすがって祈ることが許されることが必要ではないのか。涙の中にアレルヤと祈る姿はつらかった。 神は裁きの神でも、試練の神でもない。神は愛し、許し、救う神ではなかったのか・・・
オリンピックの華やかさが、余計にハイチの痛みを深く刻み込んだ。それは私自身が大きな地震を幾度か体験してきたからだと思う。他人事ではないのだ。