生きているから

 どんなに悲しくても、生きていることが救いだっていうときもある。そうでないときもある。遺族の心は一定の場所にとどまっていることができない。それは悲しみの質であったり悲しみの中身であったりするわけではない。自分たちが生きているその現実の中に悲しみの種がある。自分の命がなぜ永らえて、自分の愛するものがもはやいないのだろうと思う。なぜ私の身にこんなことが起こったのだろうかと思う。生きているからそう思う。生きていることが苦しみを呼ぶ。そのことがどんなに苦しい事なのか、当事者にならなければ分からないと思う。当事者も説明もできない。
 生きているから、生きているから、生きなければならないから・・・それでも生きていることはすばらしいといえるのか。言い切れるのか。その説得力を私は持っていない。ただ言えるのは生きてみましょうよ、ということだけだ。死ぬことは最後まで取っておこう。どうしてもというときまで。なぜなら死は、やり直して、なかったことにはできない、一度限りのことなのだから。
 誰でも、いつかは死ぬのだから。せめて命が尽きるまで待ってみてはどうだろうかと。それはすぐ後かもしれない、明日かもしれない、十年後かもしれない。誰にも分からないのだもの。だから生きてみようよ。その時まで。もう少しの間。誰のためでもない、あなた自身のために。