祈り

 では、祈りを生きるとはどういうことなのだろうか。祈り続ける、絶えず目覚めていることは人間に可能なことなのだろうか。かつてゲッセマネでイエズスがこれから起こるであろう十字架への道を思って血の汗を流して祈っていたとき、弟子たちは眠っていた。
 私たちは、たとえ愛するものが亡くなった日でも疲れ果てて眠ることができる。悲しみに倒れ込むように眠りに沈む。その眠りは果たして祈りではないのか。たとえ肉体は疲労に打ちのめされて眠ったにしても、私たちは無意識に呼吸しているように、心臓が動き続けているように、祈りの中にいると言えるのではないだろうか。
 キリストが私たちに求めたのは形としての祈りではない。眠りの中でさえも持続し、たとえ肉体が滅んでも消え去ることの無い無限に継続する祈りのあり方とは何か。生きる詩型そのものが祈りであったならば祈りは時間の枠を超え存在そのものになってゆくのではないだろうか。
 画家のポケットのスケッチブックが失われても、画家は何かに絵を描きつつける。鉛筆が無ければ自らの血を持っても描くだろう。とらわれ日とが牢獄の壁に描き続けたように。それはまさに祈りそのものではなかったのか。
 イエズスが私たちにもとめたものは決して形としての祈り、目覚めではないと私は思う。祈りは生きることそのものの別の現れなのだと思う。