仕事

午前→会議
午後→訪問2ケース
 告知を受けての手術だった。本人は希望を持って耐えた。その結果は良好と伝えられた。今日あってみて限りなく疑問符が踊る。
 沢山の癌患者と関わりその最後の道のりを一緒に歩いてきたから何かが食い違っている感じがしてならない。告知の名のもとに行われたことを知りたい。
 どんなに言葉を変えてみてもいつの日にか真実が現れてくる。そのときPCが受ける苦痛は、正確に告知されたときに受け取る苦痛と比べることができないほど大きい。
 残された時間を知ってさえいればできたであろう事々が、事実を隠されていたがゆえに先延ばしにされてできなくなっていった悔しさ。いつかきっと今よりよくなるときが来る、それまでじっと辛抱して待とう。だけれど、今が最良の体調であることもあるのだ。
 今できることを先に延ばさないでと言えることがどれほど大切であるか。だけれどきちんとした告知をされていなければ、本人も踏み出すことができない。告知の持つ意味はそういう意味でとても大きい。告知は告げた後にこそ大きな意味と、残りの日々を支える力をを持つと私は感じている。
 何よりも、つらい事実を共に分かち合って共に担ってくれる人がいればその人が自分のために悲しみ、耐えてくれていると思えばこそ、やがて来るたった一人の孤独な戦いにも、押しつぶされないで耐え抜くことができる。誰かが自分のために泣いてくれるとき、それは大きな慰めになる。偽りの告知はその通い合う心と信頼感を奪ってしまう。私の感じたことが誤りであって欲しいと願う。心から願う。