メール

寒いけど陽射しは明るい

「体育着届けて欲しい」ん?いつもと変わらず授業があり。いつもと変わらず忘れ物をした。そして届けに行く。あと一ヶ月でこの生活も終わる。高校までは親が手も口も出した。大学生になったらもう親は子供の背をあまり押さなくなるだろう。大人になったら並んで歩くようになりそしていつの日にか親はついてゆく体力を失い立ち止まり、子供は振り返ることを忘れるようになる。そして別れのときが来る。それはとても自然なこと。
 夕方蛙ちゃん夫妻がやってきて、一緒に夕食を食べた。緊張を和らげてやろうという気持ちなのだろう。お馬鹿なことを一杯言って帰っていった。夜、兄弟たちから励ましメールが続々と届く。兄弟姉妹というものはよいものだ。忘れていないよ。祈っているよ。ひとりでつらがらなくてもよいよ。一緒にいるよ。いいなあと思う。お風呂に入って、さらっと不安なところを見直してもう寝よう。寝る前に「明日は沢山飛ばなければ・・」ナウシカのせりふだ。そうだね、明日あなたは三年間の思いをエネルギーに思う存分飛ぶんだね。
 この不況で、センター利用の公立志願者は増加した。国公立一校受験というのは多くの受験生にとって、切羽詰った選択だけれど、身の丈にあった人生を歩むことも大切だと思う。私大に進む選択が悪いといっているわけではない。経済的に親に負担を掛けたくないと子供が思う世の中になったのだなあと。 
 ひところ5・6校掛け持ち受験がはやったし、入学手付金を入れて滑り止めをかけることも当たり前のことだった。志願校にどうしても行くことを願ってすべてを捨てて浪人する人も多くいた。 今の親の経済力では、なかなかそれができなくなってきている。子供たちは、無邪気に自己主張しているように見えるけれど、心の底では家庭の状況をきちんと知っているし、胸を痛めてもいるのだ。
 沢山の青年期の人たちと関わってきて思うことは、何も知らないで甘えているだけの子供時代は今の世の中にはもはや失われてしまったのではないかということだ。子供時代のかなり早い時期から、子供たちは親を案じ、親に負担をかけ無いように気遣い、さりげなく我慢をすることを身につけた上で、そこそこの自己主張をするようになってゆく。すごいなあと思う。単純ではないその心の有り様が、子供時代を無邪気なだけではないものにしている。いじめという形、問題行動、心の病気、さまざまな姿でその大変さが見え隠れしているのではないのか。そのサインが何を表現しているものなのかを見逃してはいけないのだと、私は思っている。