親分です

歩く程度のことしかしてませんが・・・

三年前の今頃。この人はきっと死ぬだろうと思っていました。
奇跡としか言いようのない回復力でこの人は生き延び、今こうして秋の山道を歩いています。
神様はこの人にまだこの世でなすべきことがあると思われたのでしょう。
生きていること。
それだけで有難いという事をわたし達にしみじみと分からせてくださったあの日々でした。
 時々命は誰のものだろうかと思うことがあります。
自死遺族と関わっている時、もしこの姿を亡くなった人が見たらどう思うのだろうか。
自分が愛した人々がこんなにも自分の死を悲しみ、その死に責任を感じて苦しみ自分自身を責めさいなんでいることを知ったら、もしかしたら死を思いとどまったのかもしれないと思うのです。


 いのちは一緒に生きている人々みんなとつながって存在しています。
だからひとりの命が千切れると繋がっていたいのちみんなが血を吹き、傷つきます。
いのちが周りの命にも別れの準備をさせて上げられればその傷口は癒え易いのかもしれません。
少なくともいきなり何の準備もないままもぎとられるよりはずっと凌ぎやすいはずです。


 親分は生きています。
わたし達もまた彼の命と繋がって自分の命を生きています。
これはとても幸せなことです。