幼いころ

風車の樹

 何が起こっても親が側にいさえすれば怖くなかった。何をしてくれるわけでもなかったのに、ただいてくれさえすれば怖くなかった。大人になった今、親を見送って自分しか頼ることが出来ない状況で、心の中に何を支えにたっていればよいのだろうかと思うことがある。
 信仰を持っている人がそれだけでたっていられると思うのは早計だ。信仰は例え普段は巌のように固いと思っていてもイザとなると何の支えにもならないこともある。宗教家の死の道のりも一般の人々と変わる事はないと思う。人間は等しく弱く頼りないものだ。人は恐れ、もがき、震えそしてやがて死が敵ではなく、心優しい友達だと分かる時が来る。死は奪われることではなく、新たになることだと気がつく。しかしそのためには命の限り生きたという充足感が必要だ。やるべきことを果たしたと思えたとき、それはいのちの時間の長短ではなく無限に繋がる絆の強さなのだが、人は今がその時だと知るようだ。そうやって訪れた死は、残された者たちに安らぎと希望を残す。
 幼い日親に守られていたように、人は命の導くままに人生を歩んでゆくのだろう。安心して、懼れることなく。特別な肩書きも、経歴もない、つつましく生きた人々の死への道を共に歩く時、真の人間に出会ったと思う瞬間がある。その人が自分の限界に向かって突き進む時、人間は何と強く、厳しい決意を持つものかと思う一瞬がある。
 私にもきっといつか、何が起こっても懼れず、自分の行くべき場所へ向かってゆく勇気と覚悟が備わるそんなときがくることを信じて、今精一杯のいのちを生きようと思う。
 

昨日はなくなった息子の22回目の誕生日だった。