過去に支配される

煙の中で花火見物

 人間の心は記憶の器と呼ばれる。無意識になってしまった過去の遠い記憶であっても、その人の現在を支配していることがある。過去は過去と切り捨てられないのは、心が記憶の器であるからだ。今日であった出来事が実は遠い昔起こった出来事とよく似ていて、思い出の引き出しを開けてしまうことがある。若しくは最早覚えてもいない昔の記憶が、その季節の風によって呼び出されてその時の苦しさを引き起こしてしまうこともある。本人はそこまでは考えないし、思い付きもしないから突然の嵐に戸惑う。発作と呼ぶような激しさで記憶の扉が開く。その時その瞬間人は無力だ。
 立ちすくむその人に、それが人間と言うものの成り立ちだと伝える。あなたが狂っているわけではない。自然の変化の中で、あなたがその時間を越えて引き戻されただけです。かつてあなたが体験した出来事の中に。誰もが実は体験していることなのだけれど、忙しく暮らしているから、あるいはそれと分かって飲み込もうとしているから、やり過ごそうとしているから耐えてゆけるのですよ。あなたは余りにも真正面から抱え込んでしまった。それほどの衝撃を受けていたのだから、そっとまた包み込んで心の中に収めよう。
 大切な人を失ったとき、大切な人に生死を分けて置き去りにされたとき、人は余りの悲しみに自分の心が壊れないように自己防衛する。何も感じない、何も分からない状態が長く続く。そして心は次第に沈黙し奥深くその悲しみを閉じ込めてゆく。やがて長い時間が経って心が少し耐えられるようになったら閉じ込められていたものが解けてくる。それを回りも共有し、悲しんでもいいんだよと認めてくれるのがお盆であり、お彼岸であり、死者の日である。この日地獄の蓋が開くと言われるけれど、実は開くのは生きている者の心の中の悲しみの扉だ。そしてこの三日間死者の記憶にとどまること、浸ることが許される。毎年毎年、思い出し嘆き、受け入れを繰り返してゆく事で、生き残ったものは自分の心の中の悲しみと折り合いをつけてゆく。何と合理的で配慮のあることだろう。先人の知恵を改めて思った。