このブログを何故書くのか

 ある方には私があの子の死を余りに悲しみすぎると思われるかもしれない。そもそも私がこのブログを描くきっかけになった事を少し書いておこうと思った。
 愛するものを失った家族が、誰に気兼ねもなく傷つけられることなく心の回復をするためには、他の遺族と悲しみや心の変化を分かち合って、そこから自分の気持ちの確認をしてゆくのが最も有効であると自分の仕事上の体験から分かっているからである。これは遺族による自助グループであったり、支援団体にる「分かち合いの会」であったりするが、その場所まで出かけられない人、人に会いたくない人には不向きな方法である。ならば在宅で出来ること、例えば電話相談、手紙、メールという方法もある。しかしその相手をどうやって見つけるのか。そこで私は私の日常を書くことによって、私の普通の一日の中で起こってくる心の変化を役立ていただければと思った。そしてその体験は、直接死を体験しなくても大きな挫折を味わっている方や、生きにくさを感じている方、何かの喪失を体験している方にも、なんらかの響きをもたらすものだと分かってきた。文章や写真の持つともぶれの力を再確認した。
 私が今までかかわってきた沢山の方たちは、自分自身の力で自分の心を再確認し、受け入れまた自分らしい人生を歩む勇気を自らの力で取り戻されていった。勇気も癒しも与えられるものではなく自らの中から湧き上がってくる生命力そのもの。人は慰めを感じることは出来るが勇気や元気をもらうことは出来ない。そもそもは個有のもの個人に存在するもの、その人自身の本質に関わるものだから。まるで薬を飲むように、外から補給することは出来ない。
 自分の心を表出することはかなりの勇気が必要だった。しかし私は慰めてもらいたいからではなく、哀れまれるためではなく、私がこの悲しみを抱えながらなお自分を見失わないで生きてゆくことの意味を問い続ける事で、もしも誰かが自分の苦しみの匂いを嗅ぎ分けられて、心の扉を開き、暗闇からまた生きることを取り戻してくれるならば、あの子がもたらした悲しみにも役割があったのだと思った。
 人の不幸は無意味にそこに横たわるものではなく人間の共同体として共有の体験として、命をはぐくむ大地の役割をなすものであろう。私は人生の半分をターミナルケアグリーフケアにかけてきた。その結果私が感じたことは「出会った全て」が私の生きる意味そのものだったということだった。
 このブログを始めるときアラシを忠告してくれた人、メンタルな人の場所になることを心配してくれた沢山の人たちがいた。幸いなことに今まで殆ど被害に合うことはなかった。心優しい方たちがご自分の大切な場所として受け止めてくださった。
 繰り返して言うが、人は生まれ、生きて、死んでゆく。その事実は全てのいのちに共通のもの。生きている「このわずかの時間」をいかに自分らしく燃えてゆけるか。いのちがこの世にとどまっている時間の長さは問題ではないようにも感じる。生きよう。生きてさえいれば。そう思うこともある。
 先日車で移動中に【人生が二度あれば】という歌を聴いた。心に染みるいい歌だった。しかし「子供を生み育てそれだけの僕の母の人生」この台詞だけは子供に歌わせたくはない、と思った。私は7人の子を生んで育ててきた。親も看護し看取った。夫の転勤について生きてきた。その悪条件の中で私は大学に行きなおし、大学院に行き、二つのNPOの立ち上げをし、今もボランテイアとして生きている。ありあまるお金はない。しかし、ささやかではあるがこれが私の人生であると笑っていえることが嬉しい。誇りたいのではない。私は生きたいと願い、生きるために頑張り続けることが出来た。私を支えてくれたみんなの愛に感謝したい。
 やりたくてやれなかったことは山のようにある。諦めきれないものは死ぬまでの時間の中できっとやることが出来るだろう。そう思って全速力で走ってきた。その中で子供を失った。私はその死を抱えて生きてゆく。mugisanは私にとってそんな場所なのだ。
悲しみを抱えてひっそりと生きている誰かに届けと願っている。
私も同じ悲しみを抱えています。
でも生きています。
転びます。
でもまた立ち上がって歩きます。
こうやって時間が過ぎて
いつか私は大地になります。