また会いましょう

今日は旅立ちに良い日

 11時からのミサにあわせて10時前には出かけた。車をどこに停めたら良いのか迷う。教会の駐車スペースは関係者優先だし、典礼係の方の車を押しのけては止められない。修道院の通路が塞がっていたら市民広場の駐車スペースと思ってとりあえず回ってみた。既に市民広場には行列ができている。致し方ないので修道院通路に回ったら縦列駐車ができれば停められそう。うう・・・・これって大嫌いなんだよね。34年間毎日車を運転していてもこれは片手ですいすいとはいかない。わたしにしては奇跡的手際ですとんと停めることができた。
 聖堂がいっぱいになるほどの参列者。彼のお人柄の故だろう。義人という言葉がふさわしい方だった。奥様も「天に帰った」ことを確信しておられるのだろう。悲しみの中にほっとした表情が見て取れる。決して平坦な道ではなかったであろう彼の人生を、こんな穏やかな形で締めくくれることが何よりの歓び。苦しみがいつの日にか実を結んでゆくことをしみじみと思った。神は嘆きを見捨てずその時にかなって応えてくださる。彼の生涯は与えて与えて与えつくした善意の旅路であったように私には思える。人間同士だからぶつかったことも無神経と思ったこともあったけれど、それも彼の一途な思いから出たことだった。自分のことではなく相手に良かれと思えばこそ頑固で依怙地でと思われても自説を曲げなかった。今はその全ての思い出がいとおしいと感じる。父ではないが父のような人だった。おかしなもので奥様は親分に自分の息子のような愛情を感じてくださっている。あの二人が立って話しているのを見ると、私でさえ母と息子に見えてしまう。きっとお互いの心の中で分かり合っていること、与え合える思いがあるのだろ。教会の中の人間模様は肉のしがらみを離れて不思議なものだ。
 冬空の下、天はあくまでも青く日がさんさんと降り注ぎ、お人柄のように穏やかで心地よい旅立ちの日となった。

また会う日まで
また会う日まで
神の お守り 汝身を 離れざれ

 歌いながらふと気が付いた。旅立つ人はもう神様の腕の中にある。最早神の守りは必要とはしない。汝身は見送る私たち自身のことになる。分かれる友人に向かって手向ける賛美歌だが、死者を見送る時、この言葉は死んでいったものから生きているものたちへの惜別の言葉になる。涙が溢れて止まらなかった。
 今頃天国では、可愛がってくれたおじちゃんとギュダ君は握手しているのだろう。動物好きの二人のことだから沢山の動物達の中に座り込んでいるかもしれない。
 私は家族の気持ちを思うと、とても耐えられず、火葬には立ち会わなかった。彼は友人としてギュダ君のお骨を拾ってくださったのだけれど、私はとても彼のお骨を拾うことができない。せめてその時間祈りながら過ごそう。教会に残って葬儀の後片付けをした。8台の花のスタンドの花をみな抜いて、花束を作って教会に来た方たちに差し上げた。菊の花、ガーベラ、百合、胡蝶蘭カーネーション、スプレーマム、白と黄色のかすかな色の組み合わせ。いかにも葬儀の花だなあと思った。この花を持って帰って関係のない誰かに差し上げることはできない。家に持って帰ってせめてこの花が枯れるまで彼のことを偲んでくれる方たちに手渡そう。