「悼むひと」

 今話題になっている作品だ。今朝のニュースで作者との対談を放映していた。ふと見ていて違和感を感じた。どこの誰とも分からぬ人が突然現れて愛するものの理不尽な死を悼んだとして私はそれを受け入れることができるのだろうか。私はその悼みに対して心の奥深く怒りを感じるのではあるまいか。悲しみは個のものだ。その悲しみに、他が割り込むことは許しがたい。肌合いの悪い感覚が湧き上がってきた。
 私も戦火で亡くなった人や、報道で知りうる遠く離れて被害に合った方たちを、我がうちに感じて嘆き、悲しみ、怒りに胸が震えるること、その理不尽さに加害者に対して怒りを感じることはある。しかしそれは遺族とは決して同じ地平にたってのものではない。
 他者は同じ地平には立てないのだ。共に生き、人生を共有しているもののみが感じる悲しみの質がある。そこに踏み込むことは許されないことだ。「悼むひと」に私が感じる違和感は聖域を侵すものに対する違和感ではないかと思う。他人は傍観者にはなれても悲しみの主体にはなれないのだと思う。それは寧ろ残されたものの権利に踏み込むことではないのか。
 自分の子供が亡くなったとき、遺族よりも激しく嘆き悲しむ訪問者を前にして心が冷えて冷たく冷めて行く、この情景は変だと怒りに変わっていった気持ちが蘇ってきた。私はあの瞬間相手の悲しみの表出に傷ついたのだ。
 この作品が果たしている役割を私は否定はしない。でも、やはり私は勝手に踏み込んで 悼まないで欲しいとつぶやく。遺族に残された最後の「死んでいったもの」に対しての権利を奪わないで欲しいと言う気持ち。きっとコレは体験しなければ分からないものであろうな・・・