師匠が居るだけで

子供たちの通った小学校

 何だかふわりと空気が丸くなる。一緒に暮らしている時はお互いにぶつかり合ったり苛付いたりしたはずなのに、今は居ることが慰めになる。不思議なものだ。日中親分は学区民運動会へ。ほとんどお仕事で。私も子供他とも体調不全で欠席。その代わり日中今度新しく担当になった方の老人施設への距離数確認に行く。車で浜のほうに向かって走るのはいまだに悲しい気持ちになる。これを一人で耐えるしかないのだなこれから。帰りが寺ホームセンターによって新しいゴミ袋を買う。値段も大きさもいろいろなので各種かってどれが我が家に必要なのかを確認する。
 夕方子供たちは、連れ立ってカラオケに行く。親分と私はそれぞれの仕事をする。この人が仕事をやめたら、私たちはどんな生活をするのだろうか。ふと先の見えない感じがしてぞくっとする。友人の中に既に夫を失った人たちが沢山居る。彼女たちの生きている世界と私の今味わっている世界がかけ離れては居ないことを感じる。心が通い合うことを如何に大切にして生きてゆくのか。それがもう満たされなくなったら、むしろ彼女たちの記憶の中の世界のほうが生きやすくなる。なくなったものたちは暖かく優しい。最早傷つけることも、いらだたせることもしない。離婚が成立したばかりの○さんが、「こうなったらさっさと他人になりたいと思う」と言った。お互いにすごしてきた長い年月を忘れることは出来ないし、そこで生まれた命もある。なくなっていった命もある。その全てを併せ呑んでも、最早一緒に暮らすことも一緒に居ることもしたくはない。そんな関係をどこまでさかのぼっても修正したいとは思わなくなる。その原点は何だったのだろうか。私にもあるのだろう。その痛みはきっと誰にもあるものなのだろう。死んでも嫌だと人に言わせるものが何なのかを知りたいとも思う。人は何を持って耐えがたいと認知するのか。その種は自分の中にあるのか、相手の中にあるのか。心を傷つけるその種を私は知りたいと思う。