郊外も郊外

行く雲の行き着く果ては知らず

 今更なんでそんな山の中に?これは不便でしょうというような場所になぜかそそられてしまった。周りは山を切り開いた造成団地。わけの分からない無国籍の家が並んでいる。そうディズニーランドの雰囲気なのさ。バス通りに面した一角にその家があった。もし自分で建てるとしたら恐らくパスするだろうけれど。数年を過ごすならよいかと思った。
 仕事も、ボランティアも救いが無い人との出会いが多い。家探しをしていて、自分の心の中に何がおきているのかをじっと感じ取っていたら気がついたことがひとつあった。私もこの人々の抱えている貧困と生活苦に痛みを感じている。だから自分の家に戻った時は全くそのにおいや重さから切り離されたい。ほんの一時でよいから人生は暖かで優しさに満ちていることを味わいたい。もちろん心の中には、私は戻ってゆける場所があることをありがたいと感じ、この人々ににすまないとも思う。単に私が彼らよりも恵まれた環境に生まれ育ってこれたという偶然の結果を享受しているだけなのだ。運がよかった。銀のスプーンをくわえてきた。それだけのことなのに。だから「私ではなくてなぜあなたが」の思いはいつも心にある。
 それでもなお、他人の生活の歴史を感じる家は嫌だと思ってしまったのだ。生きることに疲れているのかもしれない。貧困にかかわって、そこから何とか這い上がらせたいと願い、無力感をかみ締めている日常は私の能力を超えてハードだ。
 山が見えて野原が残っていて、きっと春には鶯が来てくれるだろう。どこか懐かしさの残る風景だった。建てたばかりの麦ハウスの環境に似ているようにも思った。
 ただし物凄く市の中心から離れている。市の反対から反対に毎日通うことになる。別荘感覚。利便性を取るかメンタル面を取るか悩むところ。両方満たすことが出来たらどんなに嬉しいか。もう少し悩まねばならない。家族を巻き込んでしまうのだから。
 もちろん家族の必要を満たすのであれば、私はどんな場所でも、どんな家でも辛抱は出来るし、それなりに暮らしていくことは出来る。転勤族育ちはやわではないよ。