明日は
亡くなった息子の誕生日。死んだ子の歳を数える。愚かさのたとえ。自分の身に起こるまでは何の気なしに使っていたし、言葉には出さずとも思い浮かべることもあった。今、それがとんでもない間違いだと思うようになった。愚かさのたとえではなく、ここまで後を追わずに生き延びてきたという思い。いっそ後を追ってあの子のところに駆け寄れたならと思ったことが幾度もあった。踏みとどまってこらえて、また一年を生きてきたことの感慨は深い。
子供の残した椅子には時々主がお座りになり、私に語りかけてくださる。
風が吹き抜けるように、光が通り過ぎるように。
あの子の残した空席はほかの誰にも埋めることは出来ないのだから。
あと何年、あと何回 私はあのこの生きてゆくことの出来なかった時間を数えてゆくのだろうか。
今生きている子供を大切に。もちろんそう思う。
しかし
もはや年を重ねることの出来ない あの子の記憶も大切なのだ。
誰も もはや奪うことの出来ない あの子の記憶を愛しいと思う。