思えば遠くに来たものだ

 こんな羽目になるとは思わずアレコレ必要に迫られて手を広げてきた。それが気がつけば一本の道筋に整然と並んでいる。神のなさることは恐ろしいまでに無駄が無いと思った。私はそのつどの必要に迫られて自分の力をふり絞ってきた。学んでも来た。それが今ここで一つの姿で現れてきている。

 夕方しきりに電話がなった。クライエントから。幼いころ彼女は学校の教師から性的暴力を受けたことがある。何かのきっかけでその記憶が戻ってきて彼女を苦しめる。今まで彼女はそのことを詳しく話すことは避けてきた。それが今、どうにもならない。もし、私が性犯罪被害者の救済活動をしていなかったら、この彼女のケアは出来ない。彼女は私がその活動をしていることは知らない。知らないけれど、私には彼女が何故自殺願望から逃れられないのか理解できる。全ては結び合わされて現在の苦しみにつながっている。切り離して単体で事件があるわけではない。こうやって私はターミナルケアからサバイバーの支援に、更に遺族のグリーフワーク、支援者のケア、研修教育と進んできた。その沿線に彼女のような自殺未遂の形で現れてきた性犯罪の被害者との出会いがあった。じぶんが気ままに求めての、あれもこれもではないことがこうやって長年活動し続けてくると分かる。


 しみじみと思う。私は随分遠くへと来たものだなあ。この旅の行き着く先は分からない。分からないけれど何だかこの生き方以外に私の道は無かったような気がする。人を救うとか助けるとかいう意識ではない。倒れた人が居たら駆け寄る。寂しい人が居ればそばに行って一緒に座り込む。そして相手が私に話をしたければ黙って聴く。寄り添って共に在ることが私の仕事なのだと思う。
 ある人に「何の役にも立たない。ただ聴くだけなんて。もっと現実的な援助があるだろう」といわれた。そう思う人はどうぞあなたの正しいと思うことをなさってください。私は今私に出来ることをやりますからと思う。
 私は一滴の水を運び続けるハチドリのようだ。そしてそれが私のやるべきことであるように思う。たとえパイプラインで大量の水を運ぶことが出来る人が居ても、それはそれでいい。私の役割はもっと小さなことなのだと思う。今日の写真の樹の様に。脇から小さな樹が生えて居るのを見て、私はとても可愛いと思った。大きくなれないかもしれないけれど、そのけなげな姿がいとおしい。
 それでよいのだと思う。何せ、私自身の人生なのだから。私の生きたいように生きてゆけばいい。