何を見ても

 何を聞いても、風のにおいにさえ、亡くなった子のことを思う。それが母親であると思う。私が痛みながらグリーフワークを指導し、支えてとして生きていることは私が神と向き合うために絶対必要なことだったのかもしれないと思う。子供の死を胸に抱えて正気であること、他者の援助をする事、援助者を訓練することは私の力ではなく、私を通して働いている大きな力を感じる。私という土の器を通して働いているもの、そのエネルギーに支えられてこの日一日をかろうじて生きているように感じる。生かされてあるから生きている。それはもしかしたら、私が限りなく自分に死ぬことではなかったのかと思う。帰られてゆくことの中に新たに私という人格が成長して、今まで自分の力では打ち破ることの出来なかった自我が打ち砕かれて新たに作り上げられてゆくものの中に包まれて生きているような感じがする。パウロが「もはや私ではなく基督が生きている」と書いているがそのかすかなニュアンスを私は感じ取っているのかもしれない。それほどに生き延びることは苦しいものだ。