午前一件

午後ケース会議がある。一人の人間のコレからを関係機関で討議する。今回は施設の移動だから問題は大きい。これからの何年間を考慮に入れその人にとってもっとも有利で勝つ成長できる環境を考える。老人の場合は残された時間が短いからそれなりに必要とされる援助は限られてくる。若年層の場合はこれから果てしなく長い時間を考慮に入れ成長の可能性も考慮して今を決定してゆく。
 目先のことだけで結論を出してはいけない怖さがある。自分が担当を外れもはや再考慮できない時点で不都合が起きても次の担当者に全責任をゆだねなければならない。むしろだからこそ冷静な判断ができるのかもしれないのだが。 他者の人生に責任を持つことなど誰にも、肉親でさえできないことなのだから。過ちは必ずどこかに隠れている。リスクを飲み込んでなお決断せねばならないときがある。今回は複数の機関が関係しているから本人が納得のいく決定がなされるのかまるで読めない。
 福祉という言葉の持っている不透明な部分があぶりだされてゆく。行政が見落としてきたもの、カバーできなかったものをどのように細やかに拾い集めてケアしてゆくか。NPOのはたす役割は大きい。隙間に入り込んで落ちこぼれてゆく大切な部分を救い上げてくれる。こういう個人若しくは善意の組織の存在を見込まなければこの国の福祉は成り立たない。貧しさを感じるのは私だけではないだろう。
 この類のことは自分がその現場に立ち会って始めて気がつくことだ。私も、もしこの仕事に関わらなければ全く知りえなかった事柄だった。社会はパイのように幾層にも重なっていて私達は自分が生きているごく身近な階層のことしか知りえないのだと思った。そして知りえないことはその人にとっては存在していないことなのだ。社会の弱者に対する無関心はこの現象から起きてくる。