月一回の自死遺族ケア

西から流れてくる雲

 今日は月一回の遺族のケアの日。今日も全国各地から参加された。本州の南端の飛行場から前泊を重ねて参加なさった方、などなど遠くからも見えられた。お正月のように晴れの行事の後は辛い方が多い。まして今回は生きていれば成人式を迎えたはずの子をなくされた遺族が三組参加なさっていた。その悲しみ無念さは言葉では表すことができない。誰を恨むことも悲しみを増すだけ。親は子供からこれほど激しい形で拒絶されたことに耐えられない。もし自分が親でなければ、もし違う関わり方を知っていれば、もしこの配偶者でなければなどなど果てしなくもし・・・が続く。失った命は答えてくれない。そして取り返しはつかない。午前11時からお昼をはさんで緩やかに分かち合いは続き、涙があふれ、緩やかに感情は収束してゆく。三時今日は年の初めということでお抹茶を立てていただいた。私達のワークの中で時々節目節目にお茶を立てていただく。作法を知らない方が困惑しないようにそれぞれの流儀で一人一流派という形でおおらかに頂く。不思議なもので独自流に立てていただいているはずなのに、心が整ってゆく。遺族のケアとして食事とお茶を取り入れているのは私達の独自のケアの流れなのだけれど、これもまた大事なグリーフワークである。関わる人が大切に関わろうと心から思っていること、最上のもてなしを心がけていることをこんな形で表して居る。「人心地がつく」と表現されるとき私達も心から良かったと思う。
 自死遺族であることは自分を失うことでもある。今まで確信していた愛情を一方的に拒否される。助けることも支えることも見限られたのだと結果によって知らされる。そのことを受け入れて耐えてゆくことは生半のことではない。ましてそれを第三者が支えてゆこうというのは無謀に近いことだ。できないことを承知で、それでも寄り添っていてはいけませんか。寄り添わせていただけませんか。と自らの善意を傾けて無償の心をさし出すとき、許されれば共にいることが可能になる。貴方が死の谷を、愛する人の後をおってゆかないことを願っているだけなのですと伝える。それほどのことを遺族は耐えているのだ。縁あって共にこの時間を同じ星の上に生きるものとしてのかかわりしかないのだけれど、貴方に与えられた命の限りを生きていただきたい。その思いだけが私を前に押し出す。
 もしも、息子が16歳で亡くならなかったら。私はこんなにも全力でこの仕事をしようとは思わなかっただろう。息子が生きられなかった時間を、他の方が生きられるならば、私の残された命の時間も意味のあることなのだ。