今日は万霊節

 地獄の門が開いて閉じ込められた霊魂が一斉に飛び出す夜。朝の光がさすと霊魂は門の中に吸い込まれ又閉じ込められてしまう。一年一度の大騒ぎの日。天国に行った霊魂は閉じ込められることがないから自由に行き来するらしい。とはまあ昔子供の頃聞いた話だ。この日から教会の暦では(典礼歴)死者関係の記念日が続く。日本で言えばお彼岸やお盆のようなものだ。11月1日は諸聖人の祝日。もう記録から名前の消えてしまった聖人も人間に知られていない聖人も皆一同に纏めてお祝いする。洗礼名の聖人がカレンダリオンから削除されて一体記念日がいつか分からなくなった人もこの日を自分の名の日としてお祝いすればよろしい。ちなみに我が家ではまだ行方不明の聖人はいない。私の聖人は既にとっくにカレンダリオンからは落ちているが、5月13日が記念日だった。師匠の聖人は12月から8月に移動してしまい、何でその聖人の名前を貰ったのか意味が分らなくなっているが、カレンダリオンには残っているので大丈夫。洗礼名は赤ちゃんの場合大抵生まれた日の近くの聖人を保護者に頂く。大人の場合は自分の生き方の目標にしたい聖人を選ぶ人が多い。
 11月2日は死者の日。この日は亡くなった人の為に心から記念日として過ごす。お盆のような日。教会によってはメモリアルデイとして記念礼拝をするところもある。亡くなった人はさまよっているわけではなく最も安全で幸せな場所にいる。神の国にいる。いつか私もそこに行くのだから、死は永遠の別れではない。
 自分にとってこのことが無条件に信じられたのは、最愛の息子が亡くなったときだ。死ねばわたしもこの子と又あえる。だから生きてゆこう。後を追ったら私は彼の行ったところには行けなくなる。だから自分の命をまっとうしよう。心からそう思った。きっとあの子はまっすぐに神様の手の中に飛び込んで行ったに違いないから、私がはぐれ鳥になるわけには行かない。せめていつの日にか天国までたどり着かねば。そう思った。あの子が死ななかったら、私は天国ってあるのかねと思い迷っていただろう。
 信仰というものは単純なものだなと思った。神学的にどう解釈されるよりも、単純に愛する者が行ったところに行きたい。彼が無になったとは思えない。こんなところからすとんと心に落ちてくる。理屈ではないと感じる。