今日も一日を与えられた

今日を貰ったように感じるのは何時の頃からなのだろう。目がさめると、また一日が始まるという感覚よりも、今日をこの日限りと生きようと思うようになった。高校生の頃からかもしれないな。余りに毎日が苦しくて、せめて「この日だけ生き延びよう」と思って生きればいい。もう明日のことは考えたくないと思った。時間が流れてゆくものならばこの日一日を繰り返してゆけばいつか一年は過ぎて行き私は生き延びてゆくだろうと真剣に思った。明日のこと明後日のことは今考えると辛いから、まずこの日一日を思いを込めて生きていけばいい。神様は今の私にそれ以上の事を求めはしないだろうと思った。そうやって生きてきて振り替えるといつも精一杯の自分がいる。これ以上もコレ以下も生きることが出来なかったのだなと思うが、今私も少しだけ人生を見通すことの出来る年齢になってコレでよかったのだと思う。切ない日ばかりではなく楽しい日もあり、もう何も要らないと思うほど幸せな日もあった。人生と言うものは何て面白いものだろう。自分自身がいつも次の一歩を前に踏み出そうとしてきた事を思う。小さなものは小さな歩みであることに代わりがない。その小さな歩みが重なってゆけば果てしない道のりを踏破してゆくことが出来る。自分の生き方を振り返ってそう思う。おごって言うのではない。何とささやかな生き方かと思いつつそのささやかな中に心を込めて生きてきた自分を愛しいと思う。それがこの朝の祈り「今日一日を最後の日として生きる事ができますように」だ。元気です。今日もこれから自分が担当している方の所にすっ飛んでゆきます。仕事が終わったら今日は帰りに畑によってこようかと思っています。土曜日に草引きをして花の付いたものを抜いてきたのでその後に葉物野菜を蒔きたくて。なんてこと考えています。やっていることは何ヶ月も先に収穫を夢見るようなことばかりなのですが、やっぱり今日一日です。
*ちぐら
何だか食べる量が凄く多くてはらはらします。薬を混ぜて食べさせるのですが、私なら少しずつやるのに、大甘の親分はドカンとやってしまうので「残るとあの中にも薬が入っている」と思ったりするのです。確かに大食漢ではありますが、見込みで与えてはいけないのではと今朝思いました。ただし時間が掛かるのでその分早起きするつもりです。何はともあれ生きていてくれるから嬉しいのです。