いい一日ですか?

 今日は朝から胸に痞えることがあってイラついていた。このところ親分と時間別居状態でそれがイライラの大きな原因になっている。彼と私の生活時間がかみ合わない。こんな狭い社宅で夫婦別室を取るほどの物理的余裕はないが、それぞれの生活時間をずらすことでお互いに顔を合わせることなく生活することは出来る。それを意識してやっているとまでは思わないが結果として殆どすれ違うか会話のない生活が続く。問題はこの状況を彼が一向に問題視していないということだ。共にその場所にいて時間を共有しているかに見えてその実は別の時間空間に意識を飛ばしているのはやりきれない。居ても居ないことと同じだ。
 何のために一緒に生活しているのか。この状況は全く同じ屋根の下に住む見知らぬ他人と同じではないか。このような生活が今後も果てしなく続くとしたら何のためにこの生き方を選んだのか。いらだつ自分をなだめる気にはなれない。夫婦という生き方はこんな生き方ではないはずだと思ってきたからなおのこと。
 今日一日を積み重ねて人生が築かれていくのだとすればこの一日の生き方が私の一生に関わってゆく。自分の人生に責任を持って生きたいと思っているからどうにもならない現状にやりきれない気持ちを感じてしまう。自分の世界を持ってそこだけで充足するならば結婚なんてする必要はなかったし、まして家族など持つ必要はなかったはず。一人暮らしの補いに結婚したのだとすれば私は人生の選択を間違ったのだろうと思う。これからの人生をこんな片手間の状況で生きてゆくのだとすれば余り良いことだとは思えない。彼が時間別居を考え直さない限り私のイライラは続くだろうしどこかで諦めて私の人生から彼を切り捨ててゆくだろうと思う。諦めて外の人として彼を見るだろう。それは期待しない何も最早求めないということ。自分の内面に最早立ち入らせないということにつながってゆく。彼に向かってのベクトルは在っても彼からはスカラーしか期待しないという生き方だ。諦めることはそういうかかわりしか期待しないということでコンフィアンザとも一致からも程遠い生き方。
 夫婦という生き方は脆く絶えず気を配っていないと直ぐ形骸化して行く。自分の人生なのに自分ひとりではどうにもできない。やりきれなさが付きまとう。これが人生の最小単位の姿だとすればそれが集積したものがどんな中身かは押して知るべしだろう。形さえあれば中身まで求めるのは無理なことだと割り切る生き方もあるが、私は形だけの人生はいらない。そんな思いをかかえて今日は始まった。
 でもこの一日をいかに過ごすかは私の責任。しっかりと充実した一日を生きようと思う。今日は午前一箇所、午後一箇所訪問面接がある。この前の消火器のクーリングオフどうなったか心配。では行ってきます。