おでん

めっきり寒くなってきて、食事に暖かなものがほしくなってきました。サプリメントを食事代わりにしているおばあちゃんが私の担当でいます。青汁とにんにく黒酢と卵黄とクロレラとブルーベリーと牛乳で生きています。余りの食事の偏りに心を痛めた優しいヘルパーさんが、何か珍しいものを買ってくれたそうです。「蒟蒻と卵が入っていて。あれはうまいねえ。もう御飯待てなくて食べちゃったの」と言います。はて??何だろうと考えていたらヘルパーさんが現物を買って現れました。おでんでした。コンビニから暖かいおでんを買ってきてくれました。カップに入ったおでんを食べたその方は私におでんと言う名前を言う事が出きませんでした。名前を知らなかったからです。
 今まで御飯を炊くことの無かった電気がまに布巾がかけてあり御飯ができていました。かつて、なんで御飯を食べないのかと聞いたことが有ります。「歯が悪くなって、御飯は食べられないのよ。硬くて噛めないから」「???」「御飯は沢庵食べなきゃならないでしょ。硬くて噛めない。」「!!!」そうだったのか。だからパンとサプリメントなのか。
「この世にこんなに美味いものがあると知らなかった」とニコニコして蓋を外すのももどかしく食べ始めました。この人は80歳をはるかに超えておられ、かつて家庭も持っておられました。ご主人がお亡くなりになって今は一人暮らしですが、今までおでんに出会うことは無かったようです。働いて働いて、とことん働いて、おでんは遠い食べ物だった。サプリメントが好きなわけではないのです。食事らしい食事と出会わなかったから、食事から栄養をとる方法を知らなかっただけなのです。
わたしは、このような人に出会うたびに、奇麗事ではなく、心から貧しさとは何なのかを考えさせられています。育ってきた全てのプロセスの中で出遭ったもの、出会わなかったものが何だったのか、わたしは推し量る事さえできない。私にとって当たり前のことが、思いつくこともできない遠い世界の出来事。哀れむとか、同情するとかそんなレベルのことでは無いのです。生きることそのものに肉薄して突きつけてくるもの。家庭の文化の違いをまざまざと感じながら、この人に残っている時間と生活保護のお金の範囲を考えながら、より楽しい人生の終りを生ききる為の方法を考えています。
 「生きてみるもんだねえ」とおでんを食べて喜んでいる人を前に、言葉だけの情けなんて、そんな物は吹き飛んでしまう。私に出来る事は何か。考えています。別れしなにヘルパーさんに「よく気付かれましたね」と言いました。そのヘルパーさんは「寒くなって来たから、身体を温めて栄養をつけなければ弱ってしまう。風邪引いたら立ち直れないから」と仰いました。一度寝込むと自立できなくなる危うさを皆感じているのです。今出来ることから優しさを形にすることを、さりげなく実行する人だと感じます。現場でこんな方に出会うと人間っていいなと思います。