原発事故のおそろしさ

ちぐら

チェルノブイリから20年経った。分かっているだけで9000人以上の方が亡くなっている。いや亡くなり続けている。そして原発はまだ稼動している。この事故が教えてくれたものを人類の負の記憶として生かせないのならば、この死者の数は無意味だろう。わが身に起こらなければ無かった事にしてしまう私たちの愚かさを無力感と共に思う。
 画面に映し出される老朽化した石棺の姿。この上にさらに鞘堂のようにシェルターを築き第二石棺と呼ぶという。内部にウランを抱いたまま不気味な石棺は巨大な死の卵ではないか。世界を滅ぼすであろう死のエネルギーが一杯につまっている。誰かが破壊したら、何かの天変地異で破壊されたら、誰がこの死をくい止められるのか。この事に気付きながら誰も触れようとはしない。
 悪戯に恐怖を煽るなと言うが、これは架空の事ではない。私たちの現実なのだ。この時代、私たちの生きている20世紀21世紀はまさに戦争の世紀だ。この事実を忘れてはならない。壊そうと思えば平和ほど脆く壊れやすいものはなく、守ろうとすればこれほど難しいものは無い。そして尊いものも。
 チェルノブイリが象徴しているものは広島・長崎につながり、ビキニにつながり、私たちの日常につながっている。関係ない遠い国のことではない。原子力の平和利用を無邪気に信じる事ができるのだろうか。